令和7年度総会のお知らせ
6年度に会費を納入いただいた会員の皆様に下記の文書を郵送いたしました。郵送での案内が届いていない方で、総会の出席を希望される場合は以下の文をお読みいただきご連絡をお願いいたします。多くの方のご参加をお待ちしております
令和7年4月18日
会員各位
剣聖髙野佐三郎顕彰会
会長 町田 廣文
令和7年度剣聖髙野佐三郎顕彰会総会の開催について
陽春の候、会員の皆様に於かれましては益々ご清栄のこととお慶び申し上げます。令和6年度の本会活動につきましては、会員皆様の御支援と御理解により当会の目的が達成できました。誠にありがとうございます。
また、この度令和7年度総会を下記のとおり開催致します。万障繰り合わせの上、会員の皆様の御出席をお願い致します。なお、当会年会費の御案内についても通知させて頂きます。会員の皆様の、変わらぬ御支援と御理解をお願い致します。
この案内通知は、会費納入の会員皆様へ通知させて頂きます。
記
1 総会開催について
(1)日時 令和7年6月1日(日)午後3時00分
(2)会場 秩父神社 参集殿
(3)懇親会 総会後 参加費:3,000円
(4)総会及び懇親会の出欠席の回答
回答期限は、令和7年5月18日(日)とします。
回答先は、下記のメールアドレスへの送信・携帯電話へのメッセージ送信又は電話により回答をお願いいたします。
回答先:メールアドレス:kensey1862@yahoo.co.jp
電話番号 :090-1802-0756
メール等の記入例 (氏名○○○○ 総会:出席、懇親会:出席)
2 総会資料について
出席者以外の会員の皆様は、総会資料を総会後に本会ホームページに掲載致しますのでご確認ください。
3 顕彰会年会費の納入について
年会費の納入は、誠に勝手ながら銀行口座での入金と致しますが、総会時につきましては現金の納入を受付いたします。
納入期限は、令和7年7年31日(木)とします。
〇年会費 1口2,000円
振込口座:埼玉りそな銀行 秩父支店 (普通) 4711720
口座名義:剣聖髙野佐三郎顕彰会
(入金手続きは、入会者名によりお願いいたします。)
明信本館修行者札と長男良夫泰正氏画像


1枚目は、明信館道場内に掲げてある「修行者」札です。最下段の「現在修行者」の欄にさえも数名の範士を含め、地元秩父出身の錚々たる方々のお名前が載っています。
2枚目は、髙野佐三郎長男・良夫泰正氏が明信本館剣士とともに収められている写真です。これも明信本館の別棟に掲げてあります。泰正氏は明信本館道場主として剣道の指導に尽力され、戦時中も子弟の養成に努められました。昭和9年より地元・秩父農林(現秩父農工科学高校)の剣道教師としても活躍されました。以下に年譜を載せます。
高野良夫泰正年譜 …大滝孝久・大滝早苗(旧姓高野)共著『年譜・剣聖高野佐三郎と縁の人々』より
1890(明治23) 東京府下荏原にて佐三郎次男として誕生
長男早世のため、以降は長男として扱われた
1910(明治43) 東京府下荏原中学校卒業・明治大学商学科入学
1912(明治45) 明治大学卒業・商学士
1920(大正9) 群馬出身・大塚キミと結婚、長女一子誕生
1921(大正10) 日本大学専門部歯科入学
1925(大正14) 同卒業・詩学博士、歯科医師免許取得、スイス国立ベルン大学医科入学
次女・万里子誕生
1926(大正15) ベルン大学薬学科研究修了、ベルリン大学医科歯科材料学入学
1927(昭和2年) ベルリン大学医科歯科材料学冶金学専攻修了、帰国
1928(昭和3年) 日本大学歯科助教授兼学生監、西荻久保に移転
1929(昭和4年) 三女寿子誕生、明信本館にて指導を始める
1930(昭和5年) 日本大学退職、吉祥寺移転
1931(昭和6年) 埼玉県大宮市京北高等歯科医学校材料学歯科冶金学教授
1933(昭和8) 京北高等歯科医学校材料学歯科冶金学教授退職
神奈川県逗子開成中学校剣道嘱託教師
1934(昭和9) 埼玉県秩父農林学校(現・秩父農工科学高校)剣道嘱託教師
1938(昭和13) 大日本武徳会剣道教士拝命
1940(昭和15) 大日本武徳会剣道七段免許授与
1942(昭和17) 中等学校剣道教員免許受領
1944(昭和19) 秩父農林学校退職
1951(昭和26) 逝去
勝海舟の扁額
京都にお住まいのO様から、「高野佐三郎が勝海舟に会いに行った時のエピソード」が書かれた「月刊・騒友」(昭和50年4月25日発行)の記事を送っていただきました。(筆者の「大平陽介(ペンネーム)」はO様の実父とのことです)O様の承諾をいただきましたので顕彰会HPに掲載いたします。明信本館に掲げてある勝海舟揮毫の扁額が本文中のものである可能性が高いです。
なお、画像の文章を起こしたものを以下に掲載します。本文は一部を顕彰会事務局にて編集しましたので、ご了解ください。
勝海舟に会った話
大平 陽介
むろん私が会ったわけではない。テレビの「勝海舟」が終わったところで、勝海舟に会った人の話を思い出した。それは大正、昭和の剣聖といわれた高野佐三郎翁で、私が新潮社の記者時代昭和十年の春ごろだったと思うが、昔の思い出話を拝聴しに行ったのである。ご夫妻とも健在でお住まいは浦和の大きな神社の社の近くにあった。
それは明治二十年前後のことだったらしい。当時、すでに秩父の小天狗として高名を謳われていた佐三郎は、小野派一刀流の東京進出をめざして上京し、横浜の富豪平沼専藏から金を借りて九段に道場をつくった。
そのうえで勝海舟の協力を得るため、会見を申し込んだのである。
「先生は伏せておられますが、寝たままでよければ会うとのことです」
「結構です」
ということで、奥の間に通された。広い座敷に寝床が一つあって、海舟は大きいドテラを頭から被って寝ていた。
「初めてお目どおりいたします。私は…」
と、佐三郎はいんぎんに挨拶し、訪問の趣旨を述べた。が、床の中からはウンでもなくスンでもなく、佐三郎もいささか気抜けがしてしまった。
ところが、ふと気がついたことは、海舟はドテラの片袖をもち上げて、その奥の方からじっとこちらを覗いているのだった。しばらくは、どちらも無言。やがて海舟は、やっと聞きとれるような声で、
「やめなされ、このご時勢に剣術などやってどうするんだ。秩父の山奥にいて、お前さんは何にも知らんのだろうが、道場などやっても人は来やせんよ。やめなされ」
と制すようにいう。しかし、佐三郎はひるまなかった。
「いやお言葉ですが、こういうご時勢なればこそ私は剣術をひろめたいんです。これは日本人の魂です。魂のない日本人ばかりになっては日本は亡びます」
彼は熱情を迸らせて、世間はどうであれ、自分は剣に生きる決意であることを語った。
「よし」
海舟は、むっくり床から起き上がって、
「お前さんのいうことは気に入った。おれでできることはやってやろう」
と、上機嫌の笑みをみせた。
「では、さっそく…」
佐三郎は〝明信館道場〟の看板と扁額の揮毫を依頼した。海舟は快よく承知した。
これが会見のあらましでであるが、明治初年に廃刀令が出てから剣術は衰微し、町道場は軒並み経営困難となって、榊原健吉は剣術の見世物の撃剣会をつくり、地方巡業していたという時勢だから、海舟が佐三郎に「やめなされ」といったのは当然だった。
しかし、海舟自身ひとかどの剣客であり、剣術が人間の性根を叩き上げるもので、日本の将来を考えたとき、衰微させてはならないものであることは一番よく知っていた。「やめよ」といったのは佐三郎の心底を試したまでで、その熱意がほんものであることを見てとって、協力を承諾したのであった。
その後、どんな力添えをしたかは知らないが、佐三郎が晩年、日本剣道の古典ともいうべき大著「剣道」を刊行したトップには、勝安房の写真を掲げ、非常な恩顧に浴した旨がしるされている。この本は大正四年に刊行されたものであるが、一昨年、藤沢の書房高原から履刻刊行(価三千円)された。
こうして明信館道場が強力な一支柱となって、崩壊に瀕した日本剣道を支持し、漸次、狂瀾を既倒に回らす方向へ導いた功績は大きい。
明治二十八年に大日本武徳会が創立され、大正元年には各流派を統合した「帝国剣道形」ができたが、佐三郎翁はこの時の主査員に住じている。


佐三郎講習会開催
11月30日土曜日、地元の小学5.6年生を対象とした講習会を髙野先生ゆかりの明信本館にて実施しました。
当日は町田廣文会長の挨拶の後、髙橋副会長による髙野佐三郎の幼少時の逸話や生涯の功績等についてのお話を聞き、そののち防具をつけて鈴木明信本館館長の指導で基本練習、指導者が入っての指導稽古。最後に全体での地稽古と、半日でしたが充実した時間を過ごせました。
寒暖の差の激しい日が続いていたため体調を崩して欠席となる児童や、他行事と日程が重なり不参加となった児童もいましたが、参加していただいた児童・指導者・保護者の方々には髙野佐三郎について知っていただき、また他道場の剣士たちとの交流もできるよい機会となったのではと考えております。
早朝から明信本館保護者の方には落葉掃き等の作業を実施していただき大変ありがとうございました。講習会については今後も検討をし多くの方々に満足いただけるような内容にしていきたいと思います。






ブログ記事の一部を削除しました。
今後のブログ記事の掲載につきましては、ホームページが持つ情報媒体としての影響力に配慮した掲載・運営に努めてまいります。今後とも剣聖高野佐三郎顕彰会の活動にご理解とご指導をお願いいたします。
トップページ画像について

高野家菩提寺の廣見寺書院に掲げられている。裏には「至誠」の揮毫がある。額の中にはそれとは別に昭和十三年に渡米した時の記念写真があり、私達が見慣れている剣聖のイメージとはまた違う、にこやかに微笑み非常にくつろいだ高野先生の姿が見られる。

秩父神社参集殿北西にある「産湯の井戸」。神社の杜の入り口と言ってもいい場所にあり、ひっそりとしているが日没となると燈明が揺らめき、独特の雰囲気を醸し出す。是非一度訪れてほしい場所である。

秩父神社境内西寄りにある「頌徳碑」碑文は経年により読みづらくなっているが秩父神社の職員によって文字が起こされ、それによって詳細がわかる。データは「ブログの次ページ」にあるのでご覧ください。
秩父市内「今宮神社」西側にある「明信本館」。外観も内装も伝統的な「道場」の姿そのままであり、道場内正面には高野先生の写真が掲げられている。道場内には他に勝海舟の揮毫した書も掲げられている。床下には現在も甕が埋めてあり、踏み込んだ時の音は何とも言えない味わいがある。この道場で稽古をしたいと言ってわざわざ遠方より訪れる剣道家も多い道場である。


秩父市内「廣見寺」にある髙野家の墓所。正面左に佐三郎豊正の墓石、正面右に祖父佐吉郎苗正の墓石がある。佐吉郎の墓石には辞世の句「楽しみや冥途の鬼と一勝負」の文字がかすかに読める。


剣聖髙野佐三郎先生頌徳碑

剣聖高野佐三郎先生頌徳碑
荒木貞夫 書
剣道範士高野佐三郎豊正先生は文久二年六月二日埼玉縣秩父郡大宮町高野芳三郎氏の長男として呱々の聲を挙げられた先生は天資頴悟幼少の頃祖父高野佐吉郎苗正翁の薫陶を承け慶應二年三月五歳の時忍藩主松平下総守の御前に於て苗正翁と小野派一刀流組太刀五十六本を演じ不出世の天稟を激賞せらる 爾来剣道修行に精進する事実に八十有餘年遂に一世を風靡して我が國の剣道界に君臨せられるに至った 明治十九年警視庁剣道教師を拝命し明治廿九年東京麹町九段下に明信館本部を設立し又日本体育會の結成並に大日本武徳會の創立に協力貢献せられた 明治四十五年大日本帝國剣道型制定の主査委員として薀蓄を傾け大日本武徳會々長大浦兼武氏より特に感激の賞詞を贈られ大正二年武徳會最高栄誉たる剣道範士の称號を授与せられた 明治四十一年東京高等師範学校長嘉納治五郎氏の懇望により同校剣道科講師に就任し昭和十一年勅任教授に進み正四位に叙し勲四等瑞寶章を授けられた 蓋し剣道家として古来その例を見ざるところである 又明治四十三年以来早稲田大学剣道師範として同大学剣道部育成に努め同部をして学生剣道界に重きをなさしめ更に埼玉神奈川両縣の武徳會支部陸軍戸山学校陸軍士官学校海軍機関学校等の剣道師範となり其の間全國各地の学校並びに団体より屡々聘せられて講習指導を行ひ剣道の普及発展に寄与せられた功績に頗る大なるものがある 先生は従来の剣道指導法を教育的に検討の上終に剣道基本教授法を創制して之が合理化を図り特に学校剣道を近代的形式に整備せられた 大正四年多年に渉る研究工夫の成果を結集して名著剣道を世に公にしたが恰も大旱に於ける慈雨の如く剣道界の待望に適ひ大いに斯界を啓蒙裨益する所があった 先生の演武たるや姿勢態度は端麗高雅進退屈伸は無礙自在技法術理は精妙巧緻を極め之が渾然一体となって観る者をして芸術的感激に陶酔せしめ齢古稀を超えて猶矍鑠親しく道場に立ち後進を指導して飽くことを知らず 門下生萬餘を数え一代の師表と仰ぎ慕はれ
天覧 台覧 の光栄に浴すること数回に及んだ 昭和二十五年十二月三十一日鎌倉稲村ヶ崎に八十九歳の天寿を完うして輝かしい生涯を終へられた 菩提寺は秩父大宮の広見寺である 先生の我が國剣道界に貢献せられた偉大な功績を称へ其の徳を永く後世に伝へるために門下生並に有志相謀り茲に秩父神社境内の地を卜し 先生の頌徳碑を建立する所以である
昭和三十年五月二十一日
門下生 剣道範士 佐藤卯吉 謹選
建設委員長剣道範士 白土留彦
【裏面】
故高野佐三郎先生頌徳碑建設代表委員
東京都
笹森 順造 大澤 龍 小川忠太郎 栗原友三郎 佐藤 貞夫 髙橋 英 渡辺 太吉 鶴見 岩夫