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R5年度講習会

  • sasaburoukensyouka
  • 7月17日
  • 読了時間: 2分

聖剣 髙野佐三郎 顕彰会 合同稽古会

令和5年12月16日(土)

会場:明信本館



髙野佐三郎と剣道


 3歳になった時に、秩父地方では有名であった剣術家の祖父佐吉郎(苗正)より桐の木で造った木刀を頂きました。佐三郎は、祖父から小野派一刀流の剣術を教えて頂きました。 

(小野派一刀流とは、昔の剣術です。)

稽古は大変厳しいもので、道場に豆をまいて「ゴロゴロ」する豆を踏みながら足さばきの稽古をしたり、目隠しをして稽古をしたそうです。

佐三郎は、5歳の時に祖父と小野派一刀流の組太刀56本を、当時の秩父地方を治めていた忍藩の殿様であった松平下総守忠誠公の前で披露しました。殿様は、幼い子供の腕前に驚き、褒美と「奇童」の二字を佐三郎に贈りました。祖父はとても感動して涙を流したそうです。その時に使用した袴は、髙野家の家宝として残されているそうです。

(「奇童」とは、とても優秀な子供という意味です。)

明治12年(1879年)佐三郎が、18歳の時に、児玉郡賀見村(現在の上里町)の陽雲寺というお寺で剣術の大会が行われました。この剣術の大会には現在の埼玉県内、群馬県内の剣術家が大勢集まり盛大に行なわれました。佐三郎は祖父の代わりに大会に出場しました。

対戦相手は、群馬県の安中藩という所で剣術を教えていた剣術家でした。佐三郎は得意の上段に構え試合を行いましたが、相手の得意技であった諸手突きで喉を突き破られ転倒し、負けてしまいました。

佐三郎は、この負けにより剣道の修行のために東京に出て尊敬していた山岡鉄舟に剣術を学ぶことを決意しました。

佐三郎は、師匠の山岡鉄舟のもとで厳しい剣術の修行をしました。鉄舟は「人に勝つには技よりも心にある」と教えました。その後、佐三郎は剣術の達人として認められ、剣術という戦うことを目的とした武術から、人を育成することを目的とした武道としての剣道を作りました。そして、明治から昭和の時代に剣道を通して世の中に貢献し多くの人を育成しました。

今の剣道においては、皆さんが稽古や審査で行う日本剣道形を作った人としても有名です。



髙野佐三郎に関する建物や碑




 
 

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