R6勉強会
- sasaburoukensyouka
- 7月17日
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近代武道を陰で支えた渋沢栄一と高野佐三郎
大保木 輝雄
1,人間・渋沢栄一がのこしたもの
2019年に川越市立博物館の企画展「北武蔵剣術物語-川越藩剣術師範大川平兵衛とその時代」が、翌2020年には行田市郷土博物館のテーマ展「忍藩の武術」が開催された。さらに2022年には埼玉県立歴史と民俗の博物館の企画展「埼玉武術英名録」が開催された。この一連の企画展はそれぞれの学芸員の方々が連携協力体制を敷いて展開された大事業であり、そこに展示された諸資料から、埼玉が育んだ武術の実態をあらためて感じた。そして、それぞれの図録から見えてきたのが近代武道の背景に見え隠れする渋沢栄一の存在であった。
渋沢栄一(1840-1931)は、埼玉県深谷市にある血洗島出身。「日本資本主義の父」と呼ばれ、企業、医療・教育、社会事業など多くの近代事業に参画したことで知られる人物である。2021年には栄一を主人公としたNHK大河ドラマ『晴天を衝け』(2021年2月14日から12月26日まで)が放映され、江戸時代末期から昭和初期まで、近代日本の激動が描かれたことは記憶に新しい。さらにキャッシュレス化が進む渦中にあって、2024年から使用が予定される一万円札肖像画のモデルとして選ばれたことも話題になった。栄一が選定された理由の一つは、自分の力を信じ、自分の道を生涯貫き通し常に先頭を歩んだ生き方が、これからの新たな世界を歩む我々に元気を与え続けてくれることを期待してのことだとも言われている。
こうした一連のながれにあって、栄一に関する様々な領域の専門家が渋沢の業績や人間性などについて触れている本も多く出版された。しかし、武道の近代化を陰で支えた人物としての彼の業績を指摘するものは皆無といってよい。
武道が文部省の正課として学校体育に編入されたのは1911年(明治44)。その頃から栄一は武道教育に期待と関心をいだき、その普及と研究の後押しに大きな力を発揮していたという。栄一は、講道館が創始(1882)され1909年に財団法人講道館に衣替えをした当時、東京高等師範学校校長でもあった嘉納治五郎(1860-1938)と、1908年(明治41)に東京高師剣道部師範(後に教授)となり剣道教育の第一人者となった高野佐三郎(1862-1950)の活動を背後で支え続けたのである。
晩年の栄一は、自らの撃剣体験を通じて会得した生き方を実社会のなかでそのまま試し、そこで得た実践知(暗黙知)の発信に取り組んだ。実業の発展を担う孫の世代に向けて発信し続けたのは生き抜く「勇気」と「胆力」をベースにした「人としての在り方」であった。
1929年(昭和4)に「御大礼記念天覧武道大会」が開催され、その折にまとめられ1930年(昭和5)に刊行された『武道宝鑑』に寄せられた「処世と武道」という記事がある。それは、栄一が1931年11月11日に死去しているので、栄一最晩年の言葉である。
・・・私のやったのは剣道である。丁度従兄の渋沢新三郎といふ者が、刀の筋も良く、大そう強くて、田舎には珍しい人であった為め、私はその門人となったわけである。私は身体も小さく、技も下手で,従兄のように上達はしなかったのであるが、唯膂力があるとでもいふか、臂が強く、気力だけは何人にも劣らなかったやうに思ふ。従ってその頃から興に乗じては、方々へ試合に歩いたものである。
その後江戸に出で、下谷の練塀町に塾を開いていた儒者海保章之丞(太田錦城先生の門下にして漁村と号す)先生の門に入り、一年足らずの間修業をした。その頃、儒者は皆剣道をやったもので、先づその道場内で優技試合をやる。それから進むと、他流試合に出掛ける。その他流試合は、技の巧拙よりも、負け勝ちが主で、何としても勝ちさへすればよいというわけで、殆んど闘争といった方が近いくらいである。それで、渋沢は技は左程でないが、体当りとか組打ちになると強いといはれたものだった。実際、相手が弱かったから勝てたのであろうが、今から見ると、どうしてあんな智恵のない事をしたかと思ふ。これがその頃の剣道の弊であった。
然し、これは一概に悪いことばかり看做すことは出来ない。静かに考えて見ると、私どものような者が一人で二人を相手にして負かしたといふことは、賞められこそすれ、決して一言の下に斥くべきものでない。何かそこには大きな力があるように思われる。その力は決して一朝一夕にして養はれるものではない。・・・
武道に依って心力を鍛え、凛呼侵すべからざるこの力を養って行ったならば、どんな処世上に裨益することであろうか。『治に居て乱を忘れず』といふが、平常より真の勇気を養ひ、いざという時には生命もものかはといふ覚悟があって,始めて人に対しても、又事変に対しても、キョトキョトせずに行くことが出来るのである。
武士は轡の音にも目を覚ますとか、蓋し人の用心深いことの必要を述べたものであろう。その心を以て各人が身を正し、家を斉へ、また十分に文化を咀嚼し、相当の楽しみをも解して、よく個人を完成し、その上に、世のため人のために謀ってこそ、完き人といふことが出来よう。
人類は、自己を完成し、自己の住む社会をよくし、自己の国家のために盡して始めて目的を達することが出来る。故に、国家をよくしようとすれば、先ずお互いがよくならなければならない。真に親切に、真に忠実に、而もその間には常に強い何ものかを有たなければならない。
その意味に於て、大いに武道精神を涵養することは、最も望ましいことであると思ふのである。唯だこゝに注意すべきは、由来、動もすれば固有の文化を尊重する人は西洋文明を排斥し、武に固まった人は文を顧みないといふ癖がある。それは警めなければならない。・・・
また、1912年(明治45)に発行された渋沢栄一の談話集「青淵百話」の「いかにして勇気を養うべきか」で武道について次の様に述べている(「立志の作法-成功失敗をいとわず-」国書刊行会)。
・・・先天的に勇気を授けられている人もあるが、修養によってある程度まで得ることができ、その方法も形式的なものと、精神的なものの二つに分けられる。
仮に形式的と名づけたのは、主として肉体的な面から養うのである。その最もよい手段としては、柔道とか剣道などの修業方法が昔からあり、勇気を養い胆力を鍛えるには、これらによらなければならないほどのものである。元来、本当に勇気のある人の外形的な要件としては、身体があくまで強壮で、敏捷でなければならないと思う。身体が柔弱な人では平生その勇気を維持するにも困難である。強壮な身体を持ったうえに、武芸の修業をしておくのが最上の策である。
また、一つの方法として、下腹部に力を込めることを普段から心がけておくのも悪くない。なぜかというと、人は主に頭のほうに気を奪われていると、何ごとにも動きやすいものだが、反対に腹のほうに力を注いでじっくりと考えれば、心もゆったりと落ちついていられるから、勇気を養ううえで少なからず効果がある。
古来の武術家の様子をみると、態度には軽躁なところ、つまり軽はずみなところや騒がしいところがないのに、挙動は非常に敏捷である。態度に軽躁なところがないのは、心を丹田に据えているからである。挙動が敏捷なのは、平素から備えに欠けるところがないからである。このような点からみても、下腹部に力を込めていることは、たしかに効果がある一つの手段だと思う。
とにかく、それらの修業を積むにしても第一の要素は身体の強健さにあるから、この基本から築いていくことが大切だろう。もともと柔道は、柔で受けて剛を制するところから柔道と名づけられたものだろうが、これもいかにして柔で受けるかということが、身体の弱い者にはできない。だから勇気を養おうとする人の外形的な要件としては、体力を強健にして、そののちに、しだいに柔道であれ剣道であれ稽古するようにすればよいだろう。
上記の言葉は、渋沢栄一という人間が生き抜いてきた人生の尤も底流を支え続けた「人生哲学」だったのではなかろうか。
2,渋沢栄一と嘉納治五郎
武道の近代化を図った第一人者と言えば、講道館柔道を起した嘉納治五郎(1860-1938)である。奇しくも『晴天を衝け』の二年前(2019年)に放映された大河ドラマ『いだてん~東京オリンピック噺』が主人公・金栗四三と並び描いたのは、共にオリンピックにおける日本人初の出場と初の日本開催への苦難の道を歩んだ嘉納その人であった。
渋沢は、この嘉納とも浅からぬ縁で結ばれていたのだが、その詳細を知る人は少ない。
嘉納が初めて渋沢に出会ったのは嘉納が1877年(明治10)に東京大学文学部に入学し政治学や理財学(経済学)を専攻した学生時代であったという。嘉納は渋沢への追悼文で「始めて知合ったのは、明治12・3年の頃で私が東京大学の学生であった頃、経済学の科外講師として、毎週一回であったと思ふが、講義に来られた時からである。その頃、日本人で経済学の講義をする人がなかったので、講義は皆外国人から聴いたのである。只銀行のことについて講釈をする為に、当時第一国立銀行の頭取であった渋沢栄一氏が来られたのであった。渋沢子爵は、現在社会の表面に立って居る誰よりも先輩であって、事を共にしたり、世話になったりした人は、極めて多数あろうが講師としてのその講義を聴いた人は、極めて少数であろうと思ふ。そして自分は、その少数の一人である」(1931年昭和6年、渋沢子爵への追悼文)と述べている。重ねて嘉納はその追悼文で、1902年(明治35)に嘉納が高等師範学校の校長になった時分から始まり、その後頻繁に接触するようになるのは1908年(明治41)に渋沢が財団法人講道館の監事役を引き受けてから1931年に亡くなるまで、実に23年間にわたり公私ともに付き合いがあった、と記している。
実はこの二人には互いを意識する以前にも武道を介した出逢いがあった。1879年(明治12)6月21日に第18代アメリカ大統領だったグラントが来日した折、渋沢は飛鳥山の自宅で歓迎会を開催した。様々な余興の一つとして柔術が披露され、グラントは「柔術は力と技術のいづれとするものであるかとたづね」(渋沢栄一伝記資料、以下「伝記資料」)屈強な植木職人と柔術家を対戦させ、「此余興は大層御気に叶い興に入られた」(「伝記資料」)とある。この時参加していたのが天神真楊流師範の福田八之助(旧姓持田1828-1879)と嘉納治五郎であった。しかしこの時、渋沢と嘉納との間にやりとりがあったかどうかは不明である。
福田は嘉納に柔術を手解きした最初の人物。秩父郡長瀞町の出身で奥山念流と気楽流を修め、渋沢邸での余興参加後、間もなく脳溢血で世を去っている(51歳)。福田は少年期に奥山念流に入門し柔術を学び、秩父大宮で盛んだった気楽流をも究めたという。その後24歳の時に神田お玉が池天神真楊流の磯正智(1818-1881)に学び頭角を現した。磯から講武所師範を勧められたが百姓は講武所師範になれず、福田家の養子となり31歳で講武所柔術師範となった(福田の記念碑は長瀞町の八幡神社と多宝寺にある)。
福田の死後、嘉納は磯正智に学び、さらに磯の没後は起倒流の飯久保恒年に学んだ。この二流派のよき点を取捨選択整理し新たな体系を考案したのが「柔道」である。嘉納は、1882年(明治15)に講道館を開設。その後1909年(明治42)に財団法人講道館を設立し近代組織として完成させた。その折、監事として迎えたのが渋沢であった。それを契機に嘉納との関係がより深まっていったと、「渋沢栄一伝記資料」にある。
嘉納はまた先の「追悼文」で「今一つ子爵の優れた点は、何事でも頼まれたことは出来るだけ世話をし、労を厭はぬのみならず、謙遜な態度で人に接し、人をして好感を有たしめるということであった。人は往々、人に頭を下げることは卑屈であると考へて、尊大に構へることを善いことゝ心得て居るが、子爵の如きは、そういふ考を有たぬ人であったと思ふ。-如何に頭を低くしても、自分の利益を得ようとか、名誉を得ようとかいふ念慮によるものでなく、人の為、世の為、国の為といふような、高尚な目的を果す為に、自ら謙遜の態度を持するのであると人は思ふから、人をして却って好感を有せしめ、尊敬の念を起さしめたのである。」と記している。
この描写からは20歳という親子ほどの年齢差にもかかわらず、両者とも近代的な合理性を重視した視点に加え、人間の倫理・道徳をその基盤に置くという考え方が一致し、意気投合した深い付き合いがあったと推察される。渋沢の「人と為り」に触れ、嘉納はこれからの日本を背負う若者の教育に資する「柔道」の進むべき方向性を学んだと思われる。
3、埼玉という風土が生んだ渋沢栄一
渋沢栄一と同じ深谷に生まれ、『埼玉の先人 渋沢栄一』(さきたま出版会、昭和58年)の著者である韮塚一三郎(1899-1993)は、栄一に関する著作の執筆動機について「栄一は武州の百姓の子である。維新に功があったわけでもない。もちろん藩閥出身でもない。それなのにもかかわらず日本最大の経済人、近代日本の偉大な指導者になった」のはなぜだったのかを読み解くことにあった、と言う。彼は著作の中で、「栄一の生涯を語るにあたって、どうしてもいわなければならないのは、彼が合理主義者であったということである」と述べ、福沢諭吉との類似を指摘。栄一の孫で常民研究所の創立者としても知られる渋沢敬三が栄一の死後に綴った文章のなかに「注意すると云った程度の小言を云っても、一面ユーモラスな点があると同時に、他面ロジカルに相手に迫ると云うような処がありました」と述べ、栄一の日常生活における合理主義者としての一面を語っていることなどを挙げる。韮塚はまた栄一が後年、事業をはじめる時の四つの心得(1,それが道理正しい仕事であるかどうか。2,時運に適合しているかどうか。3,己の分にふさわしいかどうか。4,人の和をえているかどうか)を示したことにについて、「これは合理精神の所有者である経済界の指導者栄一の面目を遺憾なく示している」と強調している。
さらに、識者達の栄一像について、「雄気堂々男らしく生きた」(城山三郎)、「明治の指導者として現実主義者で合理主義者であったことを高く評価し、更に封建性に対する反抗者であり、官尊民卑の社会における友であること、儒教と西洋思想とを結合した」(小泉信三)などを列挙。そのような識者らによる栄一の人間像に加え、「適応性・融和性や円満で温和な性格」が栄一の「成功の因」であり、「この性格こそは埼玉県民の共有するものだという心理学者である宮城音弥の言葉に自らの血を湧かせた」、とも述べている。
さらに、歴史学者の坂田道雄が、栄一の資質は34歳で実業界に乗り出した時には既にそなわっており、その資質として人格、実務能力、官位の三拍子そろえた点にあるとする評価を取り上げ、坂谷よる、人の人たる道は論語の「忠恕」―まごころとおもいやりの一語につきると考えた栄一像の読み解きを紹介。重ねて、坂田は栄一にとって「富国」は国民の一人一人が幸福になることであり、それが渋沢の国家意識であったこと、さらに「論語」の理念とむすびついたこの国家意識は、当然のこととして国家の利己主義をこえていた、という坂田の栄一評を記す。
韮塚は以上のような識者四人の教示を素直に受け止め、栄一の事績を年代に即してきめ細やかに描き出す。韮塚の著作には、栄一の言動が他の著者には見られない臨場感をもって表現される特徴があるのだ。例えば、栄一が23歳の時、高崎城乗っ取り計画実行に必要な武器調達の折、神田柳原の武具商梅田慎太郎との「人生意気に感ずる」といった調子で交渉したこと。乗っ取り計画失敗の後、一橋慶喜の用人となった25歳の栄一が領地での大規模な農兵部隊の募集編成に取り組んだ時は、新たに対面する人々に対して、相手の思惑を配慮しながら、自分自身の意思をきちんと伝える態度を崩さず相手方の懐に飛び込み、飲食を伴いながら時局に対する議論を展開し、撃剣の試合をしながらお互いの信頼関係を深めていったこと。このような刻々と変わりゆく局面をきちんと見据えた体当り的行動力こそが事態を動かし、多くの農兵志願者をあつめるという初期の目的を達成し、現地の人々のみならず一橋に仕える同僚や一橋慶喜からの信頼も得た。韮塚は、物事の交渉に当たっては損得抜きで実行し自分自身のすべてを賭けて相手の人格に迫るという、先に述べた事業を始める時の四つの心得を下敷きにした栄一の対面交渉術を活写している。
血気盛んではあるものの物事の是非を見極め、適切で誠心誠意をもって「体当り」で当たる栄一の仕事振りに大いに期待した慶喜は、栄一を弟徳川昭武の随行員として抜擢し内命を与えて、1867年に開催されるパリ万博に派遣させることになる。栄一、27歳のことだ。一年間にわたるパリを始めとするヨーロッパ滞在期間中での栄一の様々な体験は後の渋沢の業績の礎となったことはいうまでもない。丁度幕府の瓦解の時期にヨーロッパに在ったことが帰国後の栄一の仕事を選択させたと言ってよいであろう。若き栄一のヨーロッパ体験における驚きの数々は「伝記資料」に詳しい。
フランス滞在当時の栄一は、現地の官の立場のギレットと商人であり民の立場にあるフロリヘラルドの両人の世話を受けていたという。ここでは栄一自身の気質と当時の心情をよく伝える記述を見ておきたい。
「この両人は時に意見の相違があるが、よく観察しているとギレットの方が筋を知って
居る、条理上からは尤もらしいけれども幾らか形容が混る、フロリヘラルドの方は至って穏和で利害得失を能く弁別して所謂実利主義である。私は此人に多く相談して、少しでも金が残って居れば利殖法を考へる、公債を持つとか株を買ふとか、随って銀行どう云ふものだ、鉄道は斯う云ふものだと云ふような、所謂民業の組立などを、さう丁寧に学問的には知りませぬけれども、追々言葉も少しは分るようになるに連れて朧気ながら知るようになりました。所が其の二人の間に時々説が違ふ、争ふと云ふ程ではありませぬが、互に意見を述べて理のある所に就くと云ふ其の様子が、一方が官だから、一方が民だからと云ふやうなことは一向に無い。成程是でなくてはならぬ、日本の官尊民卑は確に間違って居ると云ふことを深く感じたことがあります。
このギレットと云ふ人は至ってお国自慢の人で、銃鎗-銃の先へ剣を附けて闘ふ彼の戦
術を非常に自慢して、日本の剣術などは一と堪りもあるまいと云ふやうなことを言われたので、私も血気の時分ですから口惜くて、少しは腕に覚えがあるから、それなら論より証拠一つ試合をやって見せませうと言って口論したことがある。其後三十年も経った後にヴェルサイユで再び此人に会ひましたときに、其の時の事を話し出して、お前はあの時に本当に試合をする積りだったかと言って笑ったことがあります」。
以上のような体験が基になり、栄一は「官尊民卑の弊害を改めるにはどうしても民業を起すに如くはないと思ひました」と述懐。帰国後、官人として立場から民間事業へと転向した理由を明らかにしている(伝記資料)。
この記述からは、素直な学びと人間観察、自分の意地を貫く姿勢など、栄一の人間性がよく現れている。このような人格は、父親と母親の薫陶や従兄達の影響があったことは言うまでもないことだが、私は、激動の時代に生きた当時の人々にとって「撃剣」や「道場」という存在が当時を生き抜くための大きな支えとなっていたのではないかと思う。ギレットに思わず試合を挑んだ栄一の対応は、そこで培われた気質の表れだったと思えてならない。
4、実業家・渋沢栄一を育んだ撃剣
栄一が素直な人間観察と物怖じしない気質を持ちえたのは11歳から開始した神道無念流の稽古によるものであったろう。後年、栄一は「雨夜譚会談話筆記」(昭和2年11月-昭和5年7月)で白石と渡辺を聞き手に、自らの剣道(撃剣)体験を次の様に述懐しているので見てみよう。
白石「撃剣は如何でございましたか」
先生「剣術は少しやった。目録を貰ふ処までなったが、宗助の方の新三郎と仲違ひして目録は貰はず仕舞だった」
渡辺「目録と云ひますと、今の初段でございますネ」
先生「アア私は、田舎初段位の処だったろう。大川平三郎のお祖父さんに大川平兵衛と云ふ人があった。此人は腕ききで、田舎者から川越の松平大和守にかゝへられた程であった。この大川平兵衛の弟子が渋沢新三郎で、免許取りであった。流儀は神道無念流であったから、私は神道無念流渋沢新三郎門人渋沢栄治郎と名乗った。尾高長七郎等と二三度修業のため野州、上州の辺を廻った事もある。出掛けるのは、家業の合間を見て、大抵春、秋、冬の三遍位で、少くも十日間掛った。その外に、誰々が来たと云っては、寄り寄りに試合を催すこともあった。私が新三郎と仲が悪かったと云ふのは、新三郎は人を圧迫するような質で、誰も新三郎に向って物を言へないと云った塩梅だったのに、私のみが口をきいたり、議論をしたりしたからである。」
先生「私は小さい時から渋沢宗助に撃剣を教わって居ったが、其時迄は宗助はまだ免許皆伝されてゐなかったから、表向きは大川平兵衛の弟子と云ふことになってゐた。昔は免許皆伝されてゐない中は、弟子をとる訳には行かなかった。それから後宗助が免許皆伝を受けたから宗助の弟子になったが、其頃は宗助はまだ新三郎と云って居ったので、私は神道無念流渋沢新三郎門人渋沢栄治郎と云った。大川平兵衛氏に連れられて行ったのは、俵瀬(たわらせ・筆者注)の萩野と云ふ家であった。そこに千代三郎と云ふ子があって、それに稽古をつける事を頼まれたからであった。内(わが家のことか?筆者注)から先生と二人で歩いて行ったが、先生と私の二人分の道具をかつがされて肩が痛くてたまらなかった。途中で妻沼の町により聖天様に参って、それから歓喜院と云ふ寺で昼食の御馳走になったのを覚えてゐるヨ。先方には一週間ばかり泊って、先生は千代三郎に稽古をつけてやった。千代三郎と云ふのは弱くて私と稽古をして、私でも押倒せる位であった。その時先生から『あまりひどい事をするな』と注意されたヨ。其後尾高長七郎と一緒に武芸修業とまでは、撃剣をやって、上州から方々廻った事が数回ある。長七郎は撃剣は飛び抜けて強かった。力に於ては私はひけをを取らなかったが、竹刀を持ってはまるで子供扱にされた」
渡辺「そんな武者修業にお出かけになるのは家業のない間でございましたか。」
先生「家の仕事の暇な時を見計って出掛けました。」
栄一は文学や儒教の勉学に加え、11歳のときから父親から家業である藍の育成や買い付けなどを教え込まれていた。渋沢家や親戚である尾高家の男子は皆文武両道を修めるのが家風であったというから、叔父の道場で撃剣(神道無念流)に親しみ、膽力の養成と共に剣が取りもつ人間関係の涵養を図っていたのである。中でも2才年長の従兄尾高長七郎は22歳で免許皆伝となるような天才的な剣の使い手であり、農閑期には、栄一は家業の藍商もかねて長七郎の後に従い栃木、群馬方面に他流試合に出かけるのが常であったという。また、彼らの師でもある大川平兵衛(1801-1871)に随行することもあり、彼らの精妙で神業に近い剣技を目の当たりにしていたのである。このころの栄一を、孫の渋沢華子はその著書で「胴長短足小太りで、腕力は強く米俵の一俵はかるがると持ち上げるが、剣術は苦手だった」と記している。
やがて、栄一は志士として24才で江戸に出、漢学塾と北辰一刀流の千葉道場に入門する。その動機と目的について、栄一は「・・素より自分の念慮は、敢て書物を充分に読まう、又剣術を上達しようといふ目的でない、只天下の有志に交際して、才能芸術のあるものを、己の味方に引き入れやうといふ考えで、早く云って見れば、かの由比正雪が謀反を起す時に能く似て居た、其中に世の中は益々騒々しく成て来て、種々の出来事もあったが、それは近世歴史などに書いてあるから、夫れを読でみれば委しく分る事だに依て、今茲で一々これを話しませぬ、かくて其歳の五月頃まで海保の塾に居て、頻りに書生連に交際したが、又お玉が池の千葉といふ撃剣家の塾に這入て、剣客の懇意を求めて居た、其訳は、今申す通り、読書撃剣などを修行する人の中には、自然とよい人物があるものだから、抜群の人々を選むで、終に己の友達にして、サウシテ何か事ある時に、其用に充る為に、今日から用意して置んければならぬといふ考えであった。」(『雨夜譚』)と述べている。
このあたりの経緯について前述の韮塚一三郎の著作にもあるように、栄一のねらいは的中し、後年、撃剣の取り持つ縁で一橋慶喜の家来となる。慶喜に認められその後の人生を決定的なものにしたのは「幕府の小栗上野介が農民兵を募集したそれにならい」一橋家領地備中板倉で歩兵志願者を募り農兵を組織したことであった。しかしながら、農兵志願者は一人も集まらなかった。思案の末、栄一は村民の信頼を得るために当地の「読書撃剣の知性人」を求め会談と撃剣試合を実施し大いに時事を語り合って痛飲した。それが機縁となり「今度来て居るお役人は学問もあり、撃剣も強い」という評判になり歩兵志願者が続々と参集し初期の目的を達成したのである。それが慶喜の絶大なる信頼を受けることになる。撃剣が、身分制度や貧富の差を超えた人物の資質を評価するものとしても機能することを栄一は自覚していたのだ。
このような栄一の実績が評価され、慶喜の内命をうけ、28歳となった栄一は、慶喜の弟、徳川昭武に随行しパリ万博に参加。一年間の滞在中、フランスで多くのことを学び、帰国後、撃剣で身につけた旺盛な気力と物おじしない膽力を実業の世界に遺憾なく発揮し、在野の立場で日本の近代化に向けて邁進すると同時に官尊民卑の悪幣を打破したのである。
近代日本建設に資する旺盛な活動を支えた<機を見抜く感性と膽力>の根底にあったのが、これまで見たように、栄一の慣れ親しんだ撃剣を通じての体験知のなせる業だったのではなかろうか。
ここで注目すべきことは、栄一は、漢学塾や剣術の道場を自分自身の学術・技芸を身に着ける場というよりは「人間の出会いの場・交流の場」と位置づけていたことである。イギリスで発展した近代スポーツの効用の一つが「社交」であったが、栄一のなかではすでに自覚されていたことが興味深い。このことは埼玉県で醸成させ有力農民を中心に発展させた様々な武術道場の設立と交流に端を発していることは言うまでもない。神道無念流や柳剛流などでは全国に向けて武者修業を開始していたが、幕末になるとその目的は、自分自身の鍛練に加えて様々な情報交換しながら新たな人間関係の醸成にあったといってよい。当時の道場はいわば各地域の文化センターのような役割を担っていたのである。
5、ネゴシエーター・渋沢栄一の活動
先に見たように、栄一は、1879年(明治12)年、日本を訪問した米国のグラント将軍接待のために武術演武会を主宰した。そのいきさつを「グラント将軍歓迎の追憶」(竜門雑誌第509号昭和6年2月)の記述から見ることにしたい。
渋沢は歓迎会の開催の動機について、「将軍の人と成りはよく知らぬが、何でもリンカーンが大統領の時の南北戦争にて功を立てた人で、平和克服の後大統領に選ばれ二期も続けたと云ふことで、米国人中の第一人者であったようです。私は日本とアメリカの将来の関係、太平洋に於ける両国の接触、また特に支那(中国)に対してお互ひに力を入れて居るから、其間に行違ひの起らぬやうにしたいと予(かね)て思って居たので、グラント将軍の如き米国の有名な人には、国民として親しくして置いた方が、日本の将来のためにもよいと考へ、福地源一郎氏、益田孝氏等実業界の有力な人々に相談して大歓迎の計画をしたのであります」と述べている。徹底した西洋方式で実施したという。最後の催しとして8月25日に上野で天皇陛下のご来臨を仰いで国民的歓迎式を催したとある。その折に実施した武術は流鏑馬、母衣曳、犬追物などであった。またそれ以前には、西洋では賓客を個人の家で招待する習慣があるというので飛鳥山の別荘にグラントを招いたという。その折に見せたのが撃剣・柔道・鎖鎌などであった。同席していた栄一の長女・穂積歌子によれば「庭前の飛石をとり除け地面を平らにして道場を作り左右に幕を張り武術者の控所がしつらへられ」「榊原健吉社中の撃剣、磯又右衛門社中の柔術各数番、外に女流武芸者の長刀の型、木太刀と長刀の仕合などもありましたが、其のうちことにめづらしくて私共に興味の有ったのは、木太刀と鎖鎌の仕合でありました」とある。特に将軍は柔術に関心をもち、力と技術のいづれが重要かという質問があり、力自慢の植木職人と柔術家との対決を試みたことが語られ「此余興は大層御気に叶ひ興に入られたそうである」と述べている。
その後、1908年(明治41)に星野仙蔵や小澤愛次郎の尽力によって撃剣・柔術が旧制中学校の正課に編入されたことを受け、高野佐三郎が東京高等師範学校の教師として採用され、嘉納治五郎校長のもとで学校剣道の礎を築くことになった。そのころ渋沢は埼玉学生誘掖会に道場を建設し高野に期待を寄せていた。
埼玉学生誘掖会(明治35年創立、栄一が会頭)の記事によれば「又先生は少壮時代撃剣を修められたので、頗る武道に興味を有せられ、明治四十四年に誘掖会の構内に道場を建設され、剣道柔道の二部を置いて、舎生に練習させ、以て剛健の気風を養はせた。尚先生は県出身の剣士高野佐三郎氏に依頼して、東京及近県の一流剣客の出席を求め、此の道場で撃剣の模範試合を開いたこと数回あった。当日は先生も必ず臨場され、舎生と共にいかにも愉快さうに之を観られた。他界された前年即ち昭和五年五月二十五日に、この道場で、県下各中学校生徒の武道試合を観られたのが、先生が本会寄宿舎に臨まれた最後である。-埼玉学生誘掖会が創立後も、之と相並んで別に埼玉学友会も存在し、先生は此方の会長でもあった。此会は広く諸学校在学の我県学生を以て構成し、毎年紀元節の日を以て、大会を開く例であった。此日も会長たる先生は、特別の事情ない限り、必ず出席して有益なる修養談を為された。尚大会の時には東京及県下中等学校の優秀生徒に、会長から賞品を授与する慣例であった」という。
以下挙行された試合を拾ってみよう。
1914年(大正3)11月22日、是日栄一、当会道場に於て、東京及び近県に於ける一流剣士の試合を催し、観覧す。
1916年(大正5)9月22日、本会道場に於て剣道模範試合を挙行す、此試合は渋沢男爵の開催せられしものにして、都下並に埼玉・神奈川・群馬・千葉の各県に於ける第一流の剣道師範二十余名出席し、各自独特の技術を闘はし、舎生は活模範を実地に見学し、裨益する所鮮少ならさるを信ず
1918年(大正7)5月13日、午後3時半に実施された剣道模範試合では、皇宮警察4名、警視庁13名、市内剣士6名、埼玉県8名、神奈川県4名、千葉県2名、その他7名、合計44名の参加であった。出席剣士には一名に付き弐円宛の酒肴料と試合後には故実によって各剣士に握り飯とスルメ、土瓶酒が振舞われたと記されている。
1923年(大正12)5月20日、午後2時、埼玉学生誘掖会武術大会、県下各中学校選手を招き優勝カップ争覇戦を行ひたり。
1930年(昭和5)5月25日、午前8時開始。埼玉県下各中学校各部選手参加。是日、当会に於て武道庭球各部優勝カップ争覇戦開催され、
栄一出席す。
6、渋沢と高野佐三郎
高野佐三郎は、明治21年、浦和に明信館を開設。それを知ってか、渋沢は先に見たように1911年(明治44)に高野に対して剣道家の人選を要請。1915年(大正4)には、理想的な剣道修錬道場の建設を企図し、神田今川小路に「修道学院」を開設して新しい育英の道を開いた。この年、高野は教育剣道の教科書ともいうべき『剣道』を刊行した。高野のその二つの大きな事業に対し、栄一は絶大な支援の手を差し伸べている。
高野と栄一の交流が何時から始まったかは今のところ特定できないが、修道学院の顧問として援助しているのみならず、大正3年(栄一74歳)には『剣道』の刊行を祝して序文を寄せ、自らの撃剣体験を語りながら高野の剣技と普及活動を高く評価し、剣道に対しての所感を綴っている。その内容は以下の通りである。(現代表記に改めた)
明治維新で廃刀令となって以来撃剣を学ぶ者がいなくなり、剣道が廃れてしまったが国内に残る尚武の気風があり剣道が再興し柔術と共に教育の手段となったことは胸のすくような気持ちよい事柄である。文を重んじる昨今にあって武を備えることは時宜にかなうものである。そのような時節にあって高野佐三郎君が剣道秘訣奥義を記した著述を世に出すことは渡りに船である。思うに、技術というものは「粗」(ざつなこと)から「精」(細かくゆきわたっている)に進み、「精」から「妙」(すばらしいさま)へ、「妙」から「神」(ふしぎなちから)へと達する。「神」に達すれば、これを「神通自在」(自由自在にどんな事もなしうる力)という。技術のすぐれた力は貴いものである。高野君の剣法は既に精妙の域を超越して「神」に達していると聞く。そして弟子を育成することに日夜励みながらこの書を世に公にして秘訣奥義を広く人に示そうとすることは、その道において忠実だと言わざるを得ない。私もまた幼少より撃剣を好み竹刀や木剣を持って「養気」の良友として大家の門に学んだことがあるが、「粗」を抜け出すこともなく故郷を出て、帳簿にうずくまる経済人となり剣の技に精通していないことは赤面のいたりである。考えてみると、剣法は胆力を貴ぶから、技術の練習と共に胆力の修養を勉めなければならない。たとえその技が妙に至り神に達していても、奪うことのできない胆力がないのであれば其の妙を発揮することができない。胆力があるといっても熟練の努力をしない者は恐らく無謀で向う見ずの勇気で失敗することだろう。ここにおいて私は、これから剣法を学ぶ者は神に通ずる技術を修め、それに加えて奪われることのない胆力を養成するように希望する。今この書を読んでみて普段の所感を書き記して序とする。
「粗より精に進み精より妙に至り妙より神に達す」技術の習得と、それを発揮させる「膽力の修養」の両方が大事だと強調していることに注目したおきたい。
武道が文部省の正課として学校体育に編入された1911年から約1世紀を経た2006(平成18)年に改訂された新教育基本法には、「伝統」の継承が教育目標の一つとして謳われ、「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養う」と明記された。新教育基本法に則った新学習指導要領は2012年に施行され、さらに改訂を重ねて2017年に告示された新学習指導要領の中学校保健体育での武道は、「柔道、剣道、相撲、空手道、なぎなた、弓道、合気道、少林寺拳法、銃剣道などを通して、わが国固有の伝統と文化により一層触れることができるようにすること。」として9種目が取り上げられた。それらの種目を見据え、「武道の特性や成り立ち」、「伝統的な考え方」などの理解を深めることが求められている。中学生に日本文化の固有性を「勘や直観、経験に基づく知恵」(暗黙知)を含んだ概念として理解を深めさせるという文科省の要請に応えることは、そのまま海外の武道愛好者の関心に応えることにもつながろう。この喫緊の課題はまた、1968年の武道学会設立時に既にテーマとなっていた「武道とは何か」という古くて新しい問題に区切りをつけることでもある。
先行きが不透明な現在にあってこうした課題に向き合うとき、幕末から明治の混沌を生き抜いた渋沢栄一の遺したことばと行動が時を超えて蘇る。それは、実業界での日常が撃剣での勝負の場と地続きであったことを彼の生きざまが示しているからに他ならない。栄一の剣道に対する識見を再確認することから始めたい。